肌感覚

今日はバレンタインデーだったのだが、まあチョコの話は置いておいて久しぶりにまじめな話。肌感覚の話。
ここでいう肌感覚というのは、いわば主観というようなものだけれども「主観」といっちゃうほど客観視できない分だけ始末に終えないものだ。

僕がこの肌感覚を実感したのは、ある年配の学生を見ていたときのことだ(ちなみに僕が直接関わった学生ではない)。非常に頼りがいがある人で、その人の周りには人が集まる。集まる人は少し幼かったり感情的だったり。
まあ、大人の周りに子供が集まるようなイメージ。

当初は、幼い友人たちの間でうまくバランスをとっていたその人だったが、時間が経過するに従って、その人の考え方はどんどん周りに染まっていく。ちょっと離れていたところで、僕が見ていても明らかに退行していっているような印象だった。しかし、少々その人の肌感覚が狂っても、周りとの差があまりにも激しすぎて自分ではわからないのだ。

その人は結局途中で辞めてしまった。周りに影響を受けてどんどんダメな自分になっていくことが本能的にわかったのだろう。

「仲間」とか「チーム」とかいろいろいうんだけど、世の中には悪気なく人の足を引っ張ってしまう人間がたくさんいる。特に、「みんなが・・・」という思想は非常に危険だ。集団は簡単に自分の肌感覚を狂わせる。

現場で仕事しているとみんなに合わせなければいけないこともたくさんあるけど、もしかすると「みんな」が間違ってるかもしれないよね。迎合して、楽をすると簡単に肌感覚は狂っちゃう。

PSWにスーパービジョンが必要というのはこういうことなのだろう。
なーんてことを完全に肌感覚が完全に狂ってしまっている僕がいうのもどうかとは思うけどね。

あ、論文書かなきゃ。

Burn Out

合格してちょ。

土日しっかりと休んで今日は久しぶりの学校だった。
とは言っても授業そのものは休みなので、またペタペタと資料作り。国家試験まであと、4日か・・・

できることは限られているけどベストを尽くしてほしいものだ。

ところでまじめな話。
僕の尊敬する人は、人を教える立場において大事なこととしてその人の将来を決め付けないということだと言っていた。今は、まだまだ未成熟で、しょうもない人間でも将来その人がどのように転ぶのかはわからないというのがその人の持論だ。

僕は、まだまだそこまで大人にはなれない。
人間はいろいろな人との出会いの中でいつまでも成長するものだとは思うが本質的には変わらないと思っている。

特に大人になると簡単には変われない。
変われるのは若いうちだけで、変われない奴はしょーもない不満を言いながら、グダグダと生きていくしかないのだ。。
だから今のうちに、俺も変わらなきゃ。

ってもう若くないよ。って口頭試問の準備しろよ!

Burn Out

話せばわかる。

今日は、初出勤だったが新年恒例の初詣にて早めの帰宅が許された。
まあ、僕は今もこうしてPCに向かっている。ところで昨日の夜、飲みすぎたアルコールのおかげで考えごとをしていた。
新年久しぶりのまじめな話。

よく「話せばわかる」というような正論を聞く。
この正論については、いつも不満に思っていた。

「だって話してもわかりあえんヤツいっぱいおるじゃん。」と。

でふっと気づいた。そうだ、「話せばわかる」んじゃん。

話し合えば「分かり合えないこと」がわかる。

分かり合えないことがわかればその相手を憎む必要がなくなるのだ。
イライラしてしまうのは分かり合いたいから。
分かり合えないことがわかれば解決するんだな。。。

なーんて昨日の夜考えたことを今書いているのは、研究からの現実逃避。

受験生は勉強しているのか。心配だなあ。

Burn Out

損得で考えてみる

僕も32歳になり、だんだんと生きるのがうまくなってきた(ような気がする)。
人間の感受性はひとそれぞれなんだけど、喜怒哀楽の中でもっとも忌むべきものが「怒」だ。
多くの宗教で、怒りは人間の最もネガティブな感情と捉えられている。憤り、怒ることを憤怒といい、キリスト教では、七つの大罪のひとつとされる。仏教では、怒りは人間を地獄界の精神状態に追いやり、死後最悪の条件に転生すると考える(wiki)。
もちろん、人間である以上「怒」の感情は絶対になくならない。
けど、短い人生の中ではあるが、「怒」で得したことは一度もない。すっきりしたことはあっても必ず後悔するのが「怒」だ。人間はこの「怒」をコントロールできるようにならないと人間とはいえないのだ。
一生「怒」なしで生きていきたいが、周囲の人間がありとあらゆること手段を使って私を「怒」させる。
でも絶対「怒」って得したことはない。
子供に対応するときにいつも心がけているのが、「怒」って得する環境を作らないことだ。
「怒」ってはぶてて得させない。「怒」ったら嫌な気持ちになるようにしないと、簡単に「怒」る人間になって将来損をしてしまうのだ。
「ムッ」とした顔をする人がよくいるがそういう人は大概ダメなヤツだ。
では、どうしても「怒」な時はどうするべきか、そうだ「哀」がある。
どうしても嫌なことがあったときは「哀」な顔をすればいいんだ。
まあそう簡単にはいかないけどね。
Burn Out

いじめについて考える。

昨日ニュースを見ていると、いじめが原因で自殺した(と思われるをつけたほうがいいのか、一応)という内容の報道。こういった事件が行ったときは毎回同じようなパターンが繰り返される。

1. 自殺
2. 遺書
3. 原因はいじめ?
4. いじめがあったことは認めるが、自殺との因果関係は不明
5. 本当のことが知りたいんですと両親。

しかし、どこからどうみてもいじめが原因なのに、なんで学校はなかなか認めないんだろうと思ってた。

僕はずっと、学校側が自分の非を認めたくない、校長や教育委員会のクソ野郎!と思っていたのだが、どうやら違う側面もあるような気がしてきたのだ。

たぶん、学校が非を認めないことは、たくさんの人の将来を護ることにもつながっているのだろう(もちろん、それがいいことではないのかもしれないが)。学生がいじめで自殺なんてしようものなら、担任の教育者としての将来は真っ暗だろう。

さらにいじめた側の学生も「護る」義務を持っているのも中学校なのかもしれないと思った。

マスコミの前で語る校長が全て悪いわけではない。でも、被害者がやられ損の世の中はもっといやだ。

Burn Out。

なりたい自分となりたくない自分

自意識が過剰なのかもしれないけれど、周りの人を見ているとどうしてもなりたくない自分ばかり考えてしまう。
自分はこうあるべきだと考えるととてもつらい。
そして、こうでもいいと妥協してしまうとそんな自分のことが嫌いになる。
もっともっとすばらしい自分でいたいと思うけど、なかなかうまくいかないことばかりだ。
なりたい自分となりたくない自分、その狭間で妥協して生きている。
まあ、むずかしいな。やっぱ、男はやせ我慢が格好いいんですたい(なぜ福岡弁?)
Burn Out

俺はエジソンではない。

最近本当に忙しくて心が折れそうになる。ふと思ったこと。かの発明王エジソンの話。

仮定の話なのだが、エジソンほどのインスピレーションを持った天才が怠け者で酒ばかり飲んでしまっていたら、どうだったんだろう。「99%の努力」のエジソンがもし、がんばれない人だったら??たぶん、いろいろな発明が少しずつ遅れて今の世の中はこれほど便利ではなかったはずだ。

そういう意味ではエジソンはすごい人間であると同時にすごい責任を持って生まれてきた人だったんだろう。
エジソンは自分が後世にまで名を残し、そしてここまで後世の人々に影響を与えるほどの発明をしたと理解していたのだろうか。たぶん、そんなことはないエジソンもまあ、一生懸命やってただけだろう。

たぶんこの責任というヤツは全ての人間にある。人間として生まれた以上やっぱりがんばらずに怠惰に生きるのは罪だ。がんばる対象はなんでもいいのでなにかしないといけないはずだ。
なーーんてそんな訳ないジャン。
だらだら生きていく人がいてもいんだけどね。。。

あーだらだらしたい。
だって俺は絶対エジソンじゃないもん。。。
でもできることはしたいと思いながら。。。
Burn Out。

どんな自分になりたいか

 今日もいろいろと忙しかった。
 これは僕には関係ない仕事だと思いながらやっているといろいろとストレスがたまる。
 そうだった!僕は現場で働いているとき、本当にスーパー精神保健福祉士になりたかったんだ。
 そこらへんの病院でそれなりの仕事をするんではなくて、本当に何十年先にも誇りに思えるような仕事を目指していたのだ。
 医療事務みたいな仕事や、医師がすべき説明などをせざるを得ないとき、そのたびに
「こんな仕事は俺の仕事じゃない」
みたいな不満を感じながらも、どんなことでもかるーーくこなせるスーパーな精神保健福祉士になるために、がむしゃらだったんだ。
 だから、今の自分がある。あのときの無意味なことも将来の役には立ってるなあ。。。
  そうだ!だから、今どれだけ不毛な仕事でも、前向きに捉えてやろう。
 そうだそうだ。どんな自分になりたいか。
 人にどう思われてもかまわないから、自分が恥ずかしくない仕事をしよう。
後から考えて
「完全燃焼」って言って燃え尽きれるようになろう。
 それが自信につながっていくハズだ。

発達障害

 発達障害について考える。
 世の中に発達障害という概念が広まってずいぶん経過した。
 発達障害者支援法が議員立法でできたのがH16年。
 当初の発達障害の研修を見ていると、発達障害を持つ人々の特徴を啓蒙する内容が多かったような気がする。
 「こういう個性があるから、こう対応したらうまくいく」という論調だ。
 その後も、一種のブームのような感じで発達障害者はどんどん増えている。
一昔前では基準に当てはまらなくて、一人で苦しんでいた人が医療の現場に助けを求める事ができるようになった。これはメリットのひとつだろうね。
しかし、診断名がついてしまうといろんなところへの社会参加が困難になる側面もある。それは周囲の環境もそうだし、本人の気持ちの面でも。
 発達障害を持つ人々について考えるとき、精神保健福祉士ついて一つの可能性を与えてくれる。
彼らに精神保健福祉士はなにをすべきか。
 僕は彼らの、個性でない部分を大事にしたい。
 様々な「個性」があろうとも、彼らのほとんどの部分はわれわれと同じなのだ。
 共有できない価値観を理解すると同時に、共有できる部分をもっともっと大事にするべきだと思う。「人間が苦手」と「人付き合いを拒否」はまったく別物だ。
 一昔前まで「発達障害者」がいなかったのではなく、周囲が共有できる部分で彼らと向き合っていたのではないだろうか。
 「そんなこだわりほっといて、やることやれや」
みたいなノリが彼らを傷つけていたと同時に、彼らを障害者という枠組みに押し付けなかったという事実も忘れちゃいけないような気もする。
 「診断名」が付くと、その対応についてHOW TOになりがちだが、あまり腫れ物に触るような雰囲気になるのはどうかなと思う。診断名が付いて、楽になるのは本人なのか、周囲の人間なのか。
 物事には、いろいろな側面がある。
 まあ今後の燃え尽きるような課題か。
 人生良し悪し。一概には言えませんね。

社会人としてのマナー

まじめな話かどうだかわからないが。。
 先日、ちょっとネット関係でわからないことがあってプロバイダーに電話した。
 私は基本的にこういうお店の人には優しく、そして丁寧に接するように心がけている。
JJ   「お忙しいところすいません。ちょっとわからないことがあるので教えていただきたいのですが・・」
相手「はいはい、いいですよ(ちょっと疲れている)」
JJ 「かくかくしかじかで・・」
相手 「(ちょっと馬鹿にしたように)まあそれはかくかくじかじかですよ」
JJ「でもその場合こうなりますけど、こういった場合はこうですよね?」
相手「ふっ・・ですからこうなるんですよ(大儀そうに)」
とだんだん人を馬鹿にしたような話し方になる。
それでも私は丁寧に聞き続けた。すると。
相手「だからね、かくかくしかじかでこうなるんだよね。」
と限りなくタメ語。
JJ 「ちょっとその前に聞きたいのですが、この質問はこの電話番号でかまわないのですか?それともこの質問は違う場所に電話したほうがいいのですか?」
相手「こちらでかまいませんけど」
カッチン!!と来たので急にキレた。
 ※誇張してます。
JJ 「ほんじゃお前はさっきからなんでそんな感じ悪い受け答えなんや!!コラ!おい!人を馬鹿にしとんか!わからんけー丁寧にきいとるんじゃろうが!とりあえず名前言え!」
相手「ひーーーみっ水沼です(仮名)」
JJ「おい水沼さんとやら、君はいくつだ??」
相手「えっえっと28歳です」
JJ「じゅあ水沼君だな。君はさっきから俺が丁寧に聞いとるのにその態度はなんだ?お客とかどうどかじゃなくて年長者にタメ口か。コラ!無礼じゃろが!」
相手「っすすいません。そんなつもりはありません」
JJ「あん!さっきまでの態度と俺がキレてからの態度が明らかにちがうじゃろが!お前は相手みて仕事しるとんか!!」
相手「すいませんでした」
JJ「じゃあわかったさっきまでの無礼な態度はわすれちゃるけ、今からお前の本気で説明しろ!!」
その後は僕も元のとおりに丁寧に聞いて、水沼君も丁寧に説明してくれた。
JJ「わかりました。丁寧に説明してくれてありがとうございました」
水沼「先ほどは無礼な受け答えで申し訳ありませんでした」
との顛末。
僕はとくに悪い人間でもないし、チンピラでもないけど、童顔だったり声に迫力がないので昔からいろんな場面でこんな失礼な場面に出くわす。
コンビニでお釣りを投げられたり、ガススタで無礼な口を聞かれたり。
こういうことが続くとモラルを持って丁寧にするのが嫌になるので、かならずキレる。こういう奴らはガツンとやったらにゃあいけん。しかもキレる時は、本当に命がけでキレる(だって弱いから)から相手もびっくりするんでしょう。
 こういう店員は相手をみて失礼な態度を取るので、こちらがキレるとすぐに謝罪。
昔はどうだかわからないけど、社会人としてのマナーを守ってると損をすることが多くなった気がする。
まあほんとは丁寧に不満を表出するくらいだけどね。
あー怒ると燃え尽きて損をする。
良い子はまねしちゃだめ。