努力と練習。

先日(とはいってもかなり前なんだけど)、長女が大学のオープンキャンパスというものに行ってきた。高校一年生という段階で夏休みの課題でどこかの学校のオープンキャンパスに参加しなければいけないそうだ。

ふーーん。

娘が行った大学では、お昼ご飯がバイキング形式でタダ。
大学によってはオープンキャンパスで試験対策講座なんてしてたりする。
アイスももらったということで興奮気味の長女。

「ねーJJ、私あの大学に行くためにがんばる!!一生懸命努力するね!」

っておいおい。
なんだか努力って感じがしないんだよね。

でいろいろ考えたんだけど、やっぱり本当の意味の努力ってのはさー。一生懸命やったってできるかどうか分からないけど、結果はさておきがんばるってのが大事なんじゃないのかなー。

僕が高校生の頃は、オープンキャンパスなんて行った事もない。
その頃の感覚といえば自分の限界までやってその中で行ける一番いい大学に行くっていう感じ。

もちろん、目標があるのはいいと思う。
だけど、見える目標を遂行するための行動は努力じゃなくて練習なんだよね。

そんな感じだと目標がないとがんばれるない子になっちゃうんじゃないかなと心配になっちった。

なにかの本で読んだけど、半分くらいの人は実際に仕事に就く頃には昔はなかった職業になるらしい。

確かに僕が高校生の頃は精神保健福祉士はなかったもんなあ。
SEもいまほど一般的な仕事ではなかったし。。

目標がなくても今生きる事を精一杯生きるのに価値があるんだと思うんだけど。

まあいいかburnout.

コミュニケーションの齟齬について

今日は久しぶりに真面目な話。

 

先日、学生に対し課題を出したんだけどどうやらこちらの意図と、学生の受け取りにズレがあったみたい。
3割くらいの学生には、間違って伝わってしまったしまったみたい。
確かに配布資料を見ると、そのように見える節もある。

これは僕自身がだんだん年老いて来て世代間のギャップが拡がって来た事が原因なんだろうと思うとさみしくなってくるねー。
 
まあそんなこんなで対応してたんだけど、間違って伝わってしまった数名はさー。
「先生の説明が悪かったせいで失敗してしまった」みたい言い方を平気でしてくるんだよね。
まあそれも確かにあるんだし僕も反省も必要なんだけど、説明が分かりにくかったんだったら聞いてほしいよねえ。。
僕は結構緩い教師なので、たちまち間に合わなかったのであれば、次回にするのでそこらへんは特に不備は感じていないのだが、ここらへんの学生とのコミュニケーションの齟齬ってのは年々増えてる感じ。
 
 
昔僕の師匠と、このコミュニケーションの齟齬について話したことがあるんだけど、彼によると若者世代とおっさん世代のコミュニケーションの齟齬はほとんどが、
 
「これくらい言わなくても大丈夫だろう」と
「言ってくれんとわからんもん」
 
で説明がつくという。

 おっさんからすると、

「最近の若いもんはこんなんもわからん。」

だけど
 
「教えてくれないと分からない」っていう感覚が若者の感じ方。
しかし、これは完全に教育機関の問題だと思う。
学生とのコミュニケーションの齟齬が怖くて、尋常じゃないくらいの過度の「説明」をくりかえすのが今の教育。
 
例えば、娘の三者懇談に行くと事細やかに成績の基準について教えてくれる。「提出物が10のうち8、中間テストが50点、平常点が70点なのは私語が何回かあったから」とか。
正直そんなんどうでもいいんだよね。なんか不真面目だからBみたいなことで十分だと思うんだけど。
だって社会の評価なんてそんなもんじゃん。
 
教育機関は「説明責任」という名においてトラブル回避の方策を練るばかり。その積み重ねで尋常じゃない量の「取り扱い説明書」を増やしていく。
大学の入学ガイダンスの資料なんて電話帳みたいな分厚さ。
あんな膨大な量の資料隅々まで読めないじゃん。

 

もちろん我が校でも同じ。
実習のしおりなんて僕が入職した5年前から1.5倍に増えてる。
最近なんて、お礼状の書き方、お礼状を送るタイミングまで記載する始末。
やっぱりこれって学校が責任のがれをしたいだけね。
言ったんだから聞いてない方が悪い。トラブルの責任は学校じゃなくて学生の質にあるっていうエクスキューズ。
 
「教えてくれないと分からない」ように育てたのは教育機関なんだよね。
でも実際に働き始めると、上司は僕ほど丁寧に伝えようとはしてくれない。もちろんクライアントはもっとそうだろう。働き始めたとたんにサービスの「消費主体」から「供給主体」にかわるんだもん。
 

がんばったらうまくいく、うまくいかないのは誰かの責任か自分の努力が足りなかったかのどちらかに原因帰属を求めてしまえるのが学校の中の公平。でもさ。だーれも悪くないのにうまくいかないことなんていくらでもあるのにね。

やっぱり、「努力が大事」、「信じれば夢はかなう」みたいなきれいごとの教育ってのは考え直した方がいいよなあと思ったりする今日この頃でした。

Burnout.

評価されるということ。

昨日に引き続いて、若者論。

ほんとおっさんになってきたんだろうなあと思いながらつらつらと。
先日、OB会というものがあり高校時代の先輩やら後輩やらと話す機会があったのだが、高校の先生をしている後輩によると今の高校生には本当に向上意欲というものがないらしい。
彼の高校は県内での有数の進学校なのだが、そんな彼の学校でもそんな状況ならいわゆる底辺校はどうなっているんだろうね。。
彼の学校には寮があるそうなのだが、一昔前は寮に入る学生のほとんどは「家が遠い」が一番の理由だったのが、今は「朝起きれない」が理由の上位に来るらしい。
彼が言うにはやはりなんでも手に入る時代だからがんばらないのが当たり前になっているのだろうと。
大学も自分の学力で行ける範囲にしか行かない。それなりに勉強はするけど。
教師がはっぱをかけても「別にいいし」というノリだそう。
うんうん。非常に同意できる。
例えばスニーカー。僕が思春期の頃は、それなりの格好いいスニーカーを買うためにかなり苦労した記憶があるが、今ではABCマートにけばナイキのスニーカーが2000円で手に入る。
服もそうだ。しまむらに言っても、ユニクロにいってもそれなりに恥ずかしくない服が安く手に入る。
最低限の生活が恵まれているのでがんばる必要がないというのは確かにそうだよなあ。
そして、その社会が当たり前に続いていくと信じている。
極めつけは大学だ。
偏差値45以下の大学だと実際には試験なんてあってないようなもの。
高校までわざわざ説明に来てくれて、きれいな設備で行き届いた指導。
大学を評価して、選ぶのだ。
そうやって集められた学生が大講義室に集められて100人で授業を受ける。そして、50歳の教授の授業を評価するのだ。
「わかりやすい」「わかりにくい」「つまらない」などと。
大学の多くは、そんな彼らに迎合する。
そんなこんなで相手を評価することに慣れきってしまっている。自分が評価される立場になることが想像できない。評価される立場になることは極力さけてしまうので、実際に評価されるとほんとに打たれ弱い。
だって、ちょっと「大事な話がある」なんて言おうものならガチガチに緊張してるもの。
就職する時も、そう。この会社はどんな会社ですか?私に合いますか?
働く先を選ぶ、評価しようとしている。
そして、一社でも落ちようものならこの世の終わりみたいな表情。
どのような職についてもは、選ぶ立場じゃなくて選ばれる立場になるのはほぼ間違いないだろう。労働の対価として給与をもらうというのはそういうことだ。
仕事内容を選べるのはごく少数でしかないのに、すべての学生は仕事先を選ぼうとしている。
そして選ばれなかったら、自分の価値をすぐに見失う。
選ぼうとするくせに、選ばれなかったらもうおしまい。
自信たっぷりに選んだり評価するのであれば、自分を落とした企業を憐れむくらいの気概が欲しいよね。
実際に仕事にでると今までの生活とは完全に変わる。今までの感覚だといい先輩、悪い先輩。そこにはいつも同じ感覚をもった友達がいたんだ。
だけど、病院などに就職すると一緒になって上司を評価してくれる奴もいない。
あっという間に評価される立場に変わってしまうのだ。
そりゃあ大変だよなあ。。
しかし、社会は変わる。僕のような考え方はもう古いのだろう。
どうなっていくんだろうか。小学校、中学校、大学とすべての教育機関が彼らに対して教えるべきことを教えれないようになり、これを社会がなんとか是正できるとは思えないなあ。
そういえば先日学生と問答しているときに、僕は聞いてみた。
JJ   「大雪で公共交通機関が遅れてしまった時に、君が働かなかった一時間の給料はどうなる?」
学生「公共交通機関が遅れたのは不可抗力だから、仕方ないんじゃないんですか?」
少し安心して次の言葉。
JJ   「うん。給料引かれても仕方ないよね」
学生 「えっ?なんで  僕が悪くないのに給料減らされるんですか?」
ちなみにこの学生は非常に優秀で見所ある学生。
JJ    「じゃあ君が経営者だったら、雪が降ったら君が悪くもないのに、働いていない奴に給料あげる?」
学生  「なんで僕が悪くないのに給料上げないといけないんですか?」
うううーーーっん。
※これは正社員として働くことの保障とかは抜きにして書いているので誤解なきよう。
明日からもがんばるもんね!!
burnout

メールの功罪

今日はいろいろと作業しながら学生の一人と長い間話していた。若者の常識とおっさんの常識について多くのことを話していたのだが、多くはメールのこと。ここ数年の学生の多くは、大事なことをプライベートな携帯にメールしてくることが多い。

「先生、今日遅刻しそうです」
といった具合だ。

僕のような世代だと、そういったことは直接面とむかって話をするか、学校の固定電話等公的な手段を使って連絡をするのが常識。

しかし、彼らにとっては携帯のメールというものが当たり前にある世代なんだよなあ。

こちらが学校のPCから個別に連絡を返事をしても半数は返事がこない。
彼らに悪気があるわけではなく、彼らにとってメールはコミュニケーションツールとして我々世代とは別の独自のルールがあるのだと思う。

携帯のメールは便利だ。
ちょっとした報告とか、言いにくいこととかを投げ捨てることのできるツール。
返答はあってもなくても大丈夫。

こういうツールを持っている世代に共通するのは衝動性なんじゃないのか。
なにかあったとき自分の気持ちを熟成させるのが下手になってしまう。
なにか、思いついた時、言いたいことがある時、電話するには勇気や作法がいる。
その点、メールは待たなくてもいいし、返答がなくても気にしなければいい。

僕が思春期の際は、そういうツールが無かった。
例えば、クラスメートが自分の悪口を言っているのを噂で聞いた時、今なら即メールして喧嘩できる。
僕の頃は、それを聞いてから悔しくて悔しくて一晩中いろんなことを考える訳だ。
「ちくしょう、明日あったらぶん殴ってやる、がつんと言ってやる」

そうこうしている間に自分の気持ちが整理できたり、相手の気持ちを考えたり。
面倒だけど、そんな時間はとても大事なのだと思う。
自然と自分の気持ちが熟成していくのだろう。そういう時間が深みになるような気がするのだが。質的すぎるな。
若者の常識がないというのは簡単だけど、そういう社会になっていくことを意識しないといかんなあ。

そういいながら僕自身はtwitterで思ったことを垂れ流しているとブログはついついおざなりに。
ちょっと意識して日記のようにブログを書くことを心がけてみたほうがいいかも。
気持ちを熟成するためにも。

しかし、これは世代の問題ではないのかもしれないなあ。
先日、昔の知人(同世代)からメールが来た。

「元気ですか?私は元気ないです」

なんて答えたらいいんでしょう。。電話してくれればいいんだけど。
返事をすると一問一答の繰り返し。非常に時間の無駄だった。

僕自身もメールを始めた頃は、電話で済むような話を何時間も言ったり来たりしてたなあ。。

そうか、これはどう考えても世代間というよりも個体差だな。
というよりもおっさんになったのか。

burnout

まじっすか。

僕も親父になったんだなあ多分学生の皆様には悪意はないと思うんだけど、、
「マジっすか?」とかいわゆる「すか」は敬語とは言えないということを誰かが高校の頃に教えておいてほしいよね。

「で」を付けるだけなんだからさ。。。

話し言葉の時はまったく気にならないんだけど、メールだととても気になる。
だから携帯メールは苦手。

卒業しちゃうと感覚的には友達なので大丈夫なんだけど。
特に現役の学生の場合はねえ。。。

たぶんこんなノリで現場に出てからもやっちゃうんだよね。。
そりゃ長持ちしないよなあ。

注意するのは苦手だけど、またおいおい注意するか。。。

新年から燃え尽きそうですな。

 

悪いのはどいつだ??

今日もまじめな話。前も一度書いたんだけど、してもらって当たり前という感覚について。うまく行かないとき、若者の多くはこう思う。

親が悪い。学校が悪い。会社が悪い。社会が悪い。

多分心の中では自分が悪いと思ってるんだろう。だけど自分が悪いと思うと壊れてしまう。

そりゃそうよね。

うまくいかない理由を自分以外に求めてみても結局うまく行ってるヤツの方が多いっていう事実からは逃れられない。

だから、他者を批判しながら一番苦しんでいるのは自分自身だ。
でも、社会はそんな彼らを暖かく包むほど強くないんだ。

”悪い”という言葉を”弱い”という言葉に代えて考えてみることはできないだろうか。

親も弱い、学校も弱い、会社も弱い、社会も弱い。

せめて弱い自分は強くならなきゃ。
そんな風に感じてもらいたいもんだ。
burnout

一目置かれたい。

僕の教えている学校は社会人対象なので、結構いろんな年代の学生が毎年入学する。今までの一番の変わり種は65歳で定年したばかりの元大学教授。
生涯学習の一貫として入学されていた。。。

まあ、そういう人は特別として20代後半から30代前半の学生は毎年数名は入学してくる。

こういう年代の学生は、大卒直後の学生と比べると大きなハンディを背負っている。
その多くは、社会人経験はあってもなかなかうまくいかなかったパターンが多いしね。
もちろん、就職活動をすれば職歴も聞かれるし、病院からすればフレッシュな若者が欲しいほうが一般的だよね。

実はこうした社会的なハンディ以外にも、学校内の人間関係でもいろいろ悩んむことが多い。年下の人と一緒にやって行くのは結構めんどうなモノだ。価値観も違うし、やっぱり相手も遠慮してる。

こういう中で、性格的に明るい学生は年齢関係なく友達ができる。まあここまではよほど性格的に難がある訳でもない限り、まあだれでも到達する。まあ超少人数のクラスですからね。
ところがここからが難しい。

親しみやすく接していると、年齢の上の人は、いい感じで若者からいじってもらえるようになるのだが、気づいたらいじられているというよりも馬鹿にされているようにしか見えない光景に出くわす。

うーーーん。それでもへらへらしてたりするのはどうなのかなとも思うけどそれにイライラするの違う。だって馬鹿にされる方にも責任あるもんね。

年取ると、同じミスにしても、若者とは違う意味を持つんだよね。
だから、普段から同じように馬鹿をやりながらも、一つ一つのことでちょっとした『格の違い』みたいなものを見せて行かなきゃ行けない。成績でもそうだし、物事の考え方でもそうだし。

尊大でもなく、背伸びもせず、自然と「一目置かれる」かつ親しみやすいそんな存在になるは難しいのだ。

あっこれは僕にも言えることか。気をつけよう。
僕は親しみやすさが一番の持ち味なので、いつも学生に小馬鹿にされている。一目置かれたいなああ。

Burn out

 

してもらって当たり前??

この仕事をしているとよく考える最近の若者について。一概にゆとり世代とかいうけれども、果たしてゆとり世代ってなんなんだろう??僕が仕事をしているときにいつも思うこと。
ゆとり世代というよりも「してもらって当たり前世代」なのだ。

この「してもらって当たり前世代」が「できて当たり前世代」とのギャップに苦しんで辞めて行くという印象を持っている。

たぶん、このしてもらって当たり前世代の走りは僕らの世代も少し入っているとは思う。
けど、僕らの世代は社会の多くは「できてあたり前世代」で入職して数ヶ月で自分の考え方が社会の中ではマイノリティだと気づく。

現在では、自分の価値観が(あくまで現在の)社会的に力を持っている人々の価値観とは違うということに気づくことができない状況があるのではないだろうか。

中学生の娘の懇談に行っていつも思う。大人が子供に気を使い過ぎ。
成績の基準とか人間関係とか、規則とか。
いいんだよ。理不尽で。きちっとしてない状態にも慣れとかなきゃ。

例えば、
体調が悪かったら配慮してもらうのは当たり前だろうか?
台風が来たら、休みの連絡が朝7時までにくるのが当たり前だろうか?
仕事が一人前にできるまで教えてもらうのが当たり前だろか?
がんばれば結果はでなくても評価してもらって当たり前だろうか?
給料が職種によって違うのは不公平だろうか?

これは、あくまでサービスの受け手の考え方なんだよね。もちろんそれが当たりませの社会を目指すべきだと思うよ。でもまだそうじゃないのも事実だよね。

「がんばってるもん」って言ってもそんなん自分が言ってるだけなんだから、がんばったことで免罪符になるのは、中学生くらいまでなはずなのに、今では大学までもそんな感じ。

年配の人から見るとできて当たり前のことができずに、してもらって当たり前のことをしてもらえないと嘆く。

たまに、目上の人からかわいがってもらっても、「してもらって当たり前」だから、感謝の言葉もでてこないし、謙虚な気持ちにもなれない。
そりゃうまく行く訳がない。

しかし、まあ数年経てばうまくいくんだろうけどなあ。
この間、一番常識のなかった卒業生が遊びにきて言ってたもん。
「最近の若いヤツはほんとに常識ないですよ!!」ってね。
働きだしたら、とたんに成長してる!!こういうのを見ると仕事がんばろうと思うよね。

これからPSW として、サービスの担い手になるときに最初のほんの数年間だけでもうまく乗り切れれば結構うまくいくんだけどねと思いながら、今日はもう寝ることにしたのだ。
BurnOut。

学力とはなんぞや?

先日、とある公開講座があって参加させてもらった。
その研修は大学教育におけるコミュ力とかそういうよからぬ風潮に対して心理学ができることみたいなテーマではあったのだが、僕にとってもタイムリーな話でとても刺激を受けた。その後講師の先生と飲み会にも呼んでもらって、もっと大切なことも学んだのだがまあさておき。

ちょっとその研修とは異なる話題なのだが、その研修の中で

「ある意味、学力テストはもっとも客観性の高い心理検査といえる」という言葉を聞いた。

確かにそうだよな。学力の大きさが人間の大きさではないとか、個性とかそういう言葉は使い古されているけれども、結局自分が学生を教える立場になってもやはり学力とかは大事だと思う。

もちろん、学力が悪くてもセンスのいい学生はたくさんいるし、その逆もあり得るのだと思う。

しかし、やはりその平均値とかその後の実践とか見てみると、やはり学校での学力が上の方が長く続いたり、出世したりする可能性が高いと思う。もちろん肌感覚だよ。統計的にはどうだか。

思うに学力っているのは、根気のいる作業を黙々とやる我慢強さやら、興味のないことを自分なりに理解したりとか、効率よく要領よくとかそういったモノをしっかりはかっているんだよなあ。

学校にいる間にしっかりトレーニングできるように、教員としてもがんばらないと。
勉強よりも過酷なことは現場ではいっぱいあるもんなあ。

現場で人並み以上になろうと思ったらまあ学校のテストくらい人並み以上になっとかないとね。

Burnout.

 

金の使い方

今日は完全に愚痴。いつも思うことなのだが、金のないやつに限って金の使い方がおかしい。
「俺は一人で働いとる。JJは二馬力だからいいよね。俺なんて貯金0だよ」
と妻子を養っていることに誇らしげ。

あのね。君の金がないのは俺とは関係ない。その前にその33ナンバーの車とカーナビはなあに?
親にたかってマンション買ってんだからローンは我慢しようよ。金がないならパチンコするな。

僕は分相応な生活してるもん。軽自動車だし、賃貸だし。ビールは普段第三だしね。

そのくせ、「俺発泡酒は受け付けないんだよね」だとさ。

そんなこんなで飲み代も少しでもこちらに払わせようとする始末。
「俺はさー。会社だと後輩に金を払わしたことないんだよね。だけどJJは余裕でしょ?」

おいおい。君は金払って自分が上であることを確認したいだけでしょ?
君と飲むのが楽しかったらおごらんでも後輩はついてくるでしょ。
僕の余裕は君のためにはないし。

こういう人はおごったことは絶対忘れないけど、自分のかけている迷惑にはまったく気づかない。

あー気分悪い。

やはりお金の使い方は大事。これは使われる方(おごられる方)ではなく、出す方の気分の問題。
ちなみにこれは僕より年齢が高い人の話。
20代の間は金がないのはあたりまえだけどね。

これから大人になるに従っていろいろ気をつけないといかんな。

そうそう、ボクは結構おごっちゃうほうだと思います。
だけど、次の日にはおごったこと忘れてます。
だって楽しかった時間についついだしちゃうのはすてきなことだと思います。

だから、後輩はおごってもらって感謝するよりも、おごらせるほど先輩に楽しい思いをさせたと思って誇ればいいのです。

Burnout。